【自己肯定感が低すぎた】夢を諦めた人〜その後〜
仕事を辞めてから半月とちょっと経ったところで、実家に帰った。
特に何か相談したかったわけではなく、ただ母親の手料理が食べたくて仕方がなかった。
私が実家に帰ったとき、9つ上の姉が里帰り出産のため実家に帰って来ていた。
再来月には出産予定だという姉のお腹は大きくなっていて、お腹の赤ちゃんが動くのが目視でもわかるぐらいだった。
再来月には私もおばちゃんだよと言われて、
なんだか頼りないおばちゃんでごめんねと
心の中で謝りながら苦笑いした。
母親の手料理も安定に美味しくて、仕事を辞めてから今まで全然食欲がなかったのに
その日はしっかりご飯を食べることができた。
夜になり両親が寝て、姉と二人っきりになったとき、私が高校生の時の話をした。
姉は私が高校生の時、つまり姉がちょうど今の私の歳ごろの時、うつ病になって実家に帰って来た。
高校生だった私にとって、あんなに元気でバリバリ働いていた姉が別人のようになって帰って来たことはかなりショックだった記憶がある。
当時の私は少しでも姉が安心出来るように
病気の事を勉強して姉の近くに出来るだけいるようにした。
それでも、社会に出たことない高校生に社会人としてギリギリまで働いた姉の苦しみは分からなかった。
当時の姉の気持ちを聞いていたら、今の自分と同じような事を考えていて、涙が止まらなくなってしまった。
子供時代ぶりに恥ずかしげもなく声を出して泣いてしまった。
結局、姉に今の自分の状況や気持ちを話していた。
姉は私が話し終わるまで何も言わずに話を聞いてくれた。
私が話終わると姉も話してくれた
「仕事が辛くて辞めて、夢を諦めた、仕事をしていない自分が嫌いで、生きるのも嫌になって、将来が真っ暗で苦しくて仕方ない、
私も当時そんな気持ちだったよ。
永遠に苦しいならもう終わってしまいたいと何度も思った。
仕事をしている自分が好きだったから、病気になった自分にみんながっかりすると思ってた。
でも結局、家族も周りもがっかりした人なんて誰もいなかったよ。
仕事を頑張っている私の事が好きなんじゃなくて、私自身のことを愛してくれていたから。
仕事していない私も、病気になった私も、自信がない私も、みんな私だから、どんな私だろうと周りの人には関係ないんだよね。
私は、自分のこと許せなかっただけだった。
自分で勝手に決めた目標に対して、達成できたできないで価値を決めてたの。
夢を追いかけた事も辛くて諦めた事も失敗だとは思わない。
でも、理想と現実はやっぱり違う。自分に出来る事って限られてる。
それが分かっただけでもいい経験だと思う。
自分が思ってるより自分はすごくないのよ。
全然頑張れなかったり、めちゃくちゃダサかったり、いつまでも大人になれないようなね。
それを認めてあげて、すごくなくて良いってこと。
すごくなくてもそれでも十分な存在なのよ。
自分をあんまり否定しないで。」
姉の話す通りだった。
自分で作った理想像に自分の現実が追いついてないことに物凄く憎い感情があった。
自分を否定してばっかりだった。
意味のないことだ。
「向き合うまでにはまた苦しくなる事が何度でもあると思うけど、辛かったらすぐ帰って来て、というか、辛くなくても帰って来て、赤ちゃんの顔見てあげてよ」
姉の言葉を聞いて、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
今の世の中、自己肯定感を高める方法とか、ポジティブな人が魅力的だ、など言われるが、自己肯定感なんてものは取ってつけれるほど簡単なものではない。
私は自己肯定感が低すぎるが故に理想を高くもち自分にとって無茶な選択ばかりしてきた。
その結果、今現在大ブレーキ中だ。本当に良くないと思う。
でもこんなことになったからこそ、自分の一番自信のないところに真正面から向き合えるような気がする。
まだまだ自己肯定感は低いままで、悔しい気持ちもいっぱいだけど
もう本やネットで「自己肯定感を高める方法」なんて調べることは無いと思う。
【無職になってしまった】夢を諦めた人
小さな映像制作会社に勤めていた私だが、多忙な毎日を送っていたある日、ふと会社に行きたくなくなって、体調不良と嘘をついて何日か会社を休んだ。
数日ぶり出勤したとき、私は自分でも思いがけず、「仕事辞めます」と社長に言っていた。
小さな会社だったので、社長と話して10分程度、すぐに辞めることができた。
その日の帰り道、自分でも状況に追いつけず、
「あれ?私、仕事辞めちゃった???」と、漫画のように首を傾げながら帰った記憶がある。
映像制作の仕事は私の夢だった。
頑張って就職活動をしてやっとの思いで入った会社だった。
噂通り昼夜問わず忙しくて、
「働き方改革」とか「パワハラ・セクハラ」なんて言葉はまだこの世界には届いてないのかなあと思いながらそれでも仕事が楽しくて仕方なかった。
親や周りの友人も私のモーレツ社員ぶりに少し心配しつつも応援してれていた。
何よりも夢に向かって努力している自分が大好きだった。
一種の自惚れのようなものだけど。
そんな中、いきなり仕事を辞めてしまって、
一週間くらい「なんで仕事辞めたんだっけ?」と自問していた。
その時、仲の良い友人から
会わない?
とラインがきた。
彼女と会うのは半年ぶりくらいだった。
仕事を辞めてからずっと引きこもっていたので、久しぶりに外にでた。
私が無職だってことを行き交う人たちが知る由もないのは分かってるが、恥ずかしくて堪らなかった。
仕事もせずただのうのうと生きてるお前には価値がないんだと言われているような気になった。
友人を待っている間、街の真ん中にたっているだけで、ただただ苦しかった。
友人と会ってからは今まで通り、元気なフリをしていたと思う。
そして、案の定、「仕事はどう?」と聞かれてしまった。
私は、その友人の前では嘘をつく気にもなれず
「仕事ねぇ、辞めちゃったよ〜
楽しかったんだけどね、なんで辞めたのかの自分でもわかんない」と、なるべく重くならないよう笑いながら話した。
友人は最初は驚いたみたいだったが、
「でも、好きだったかもしれないけど、やっぱり辛かったから辞めたんじゃない?
働きすぎだと思ってたし、頑張りすぎたんだよ。少しゆっくり休みなよ」
と、言ってくれた。
その時初めて、人に言われて気づいた。
辛かったから辞めたんだ。
あまりにも簡単でよくある理由だった。
自分はただ、挫折しただけだった。夢を追いかけるほどの根性がなかっただけだった。
続けるほどの自信と熱意がなかっただけだった。
よくある話。ネットでよくみる才能のない人の話。
その日の夜は、悔しくて悔しくて寝れなかった。
それからは、もう何も頑張れる気になれなかった。
何をしてもどうせ出来ないと思うようになった。
大好きだった夢に向かって努力している自分がいなくなってから、
自分のことが嫌いで嫌いで仕方なかった。
「自分なんて死んでしまえばいいのに」と思うけど結局死ぬ勇気もなくて
自分はなんて臆病で弱い人間なんだろうと更に落ち込むの繰り返し。
とうとう辛くなって、なけなしの金で数日だけ実家に帰ることにした。
状況は変わらないけど、この沈んだ気持ちが少しでも晴れればいいと思った。
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ゆとり世代は甘えているのか。
今回は「ゆとり世代」への悪い印象について、
どっぷりゆとり世代である私自身が思っていることを書いていこうと思います。
そもそもですが、
時代の流れは繰り返すもので、ゆとり世代に限らず、最近の若い子は…といつの時代もよく言われた者です。
なので、別にゆとり世代だからずば抜けてどうしたという事でもないのかもしれません。
敢えて、言うならと言う話をします。
先生や親に怒鳴られ、叱られ生きてきた経験は他の世代と比べたら少ないのかもしれません。
余裕をもって、一人一人の個性を大事に、優劣は付けずに、のびのびと育てましょう!!!
そう大人達は一丸となって育てたわけです。
そうして育てられた子供たちは、あまり我慢、忍耐、という感覚を持たずに育ちました。
自分のやりたいことを社会に縛られずにやっていきたい。
もしくは、誰にも感化されず、出来るだけ働かずに生活していきたい。
とか、思う人が多いのではないでしょうか。
他人にガミガミ言われることを嫌う私たちは社会に出て最初に困惑するわけです。
仕事をするしない、出来るできない、ではなく、立場や空気を読んで、仕事ではない部分に命をかけているようにみえる大人たちに。
やりたくない事も仕事以外の付き合いもこれが出来たら大人になるって事だ
俺たちは毎日やっているんだ
だからお前も出来るようになれ
楽しい仕事なんてこの世にはないぞ
学生の時に散々、夢を持て、やりたいことを見つけろ、そう言われた私たちは社会人になる事がどんなにつまらないことかを教えられるのです。
特に、比較的個性とか個人を尊重されてきた私たちは社会人になっていきなり「俺たちのやり方に従え」と言われてしまうわけです。
そこで、自分は従いたくないと思った人が、すぐ辞めてしまうのかもしれません。
それは、忍耐力がないとか、甘えているとかの話ではなく、
そもそもそんな我慢ならしたくない
と、思う人が多いのだと思います。
私たちは我慢すること、所謂、修行のようなものにあまり価値を感じないのです。
長年、耐え忍んでなにも言わない師匠から必死になって技や芸を盗むより、
最初から教えてもらったほうが手っ取り早いじゃないか。
調べればなんでもわかる情報社会で育った私たちは効率的なほう、楽な方へと向かう事が当たり前なのです。
でないと、目まぐるしく変わる社会のスピードについていけないのです。
勿論、修行の大切さもわかってます。
ただマニュアル通りに教えてもらっただけじゃ習得出来ないことも山ほどあります。
でも、じゃあ、一回やり方教えてもらえれば、出来るようになるまで頑張ります。
そう答えたくなってしまいます。
答えを知っているのに教えてくれないのは、ただただ非効率で、教えてもらえない方が困るだけの、なんとも無駄な時間だと思うのです。
ここが、ゆとりは甘えてると言われる所以なのかもしれません。